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竹林上人

竹林上人写真

竹林上人は宝暦八年(十年という説もある)三木町井戸村白羽に生れ、幼名を栄六、名を独雄、竹が好きで自ら竹林、竹谷と号した。

平賀源内より三十年ほど後の人で、平賀の自由奔放な活躍とは正反対に、常に粗末な衣食に甘んじ、身を修め、こつこつと仏の道を説いた聖僧である。

母の体内に明珠が入るを夢見て上人をみごもられたといい、入定のときは、弘法大師と同じように死期を予言された。

十三才のとき高松野方町の多聞寺で出家得度し、師僧哲雄に従って志度自性院に転居してきた。ここで十四才で一万遍、十五才で二万遍、二十一才では一日三万遍の光明真言を唱え、常人ではできない修行を積まれた。

天明四年(1784)上人二十六歳のとき、師命により第七代目自性院主に就任したが、僅か一年半で院主を弟子の観道にゆずり、自らは寺の西南五十米のところに「三等室」と命名した草庵を結び、まわりに竹を植え、ここを布教を重ねた。上人に関する逸話が沢山残っている。夏、川辺で蚊に自分の血を吸わせて供養したり、硯の水を筆につけ、これを振って近所の火事を消したり、葬式の途中に殺生しないよう 蟻を踏まないよう心掛けたり、また、地獄、極楽を袖の中で実現して見せたりした。

ある日、高松藩の学者、中山城山が三等室を訪れると、上人が乞食と酒盛りしているのを見て、あまりにも庶民的だったので驚き帰ったという。

学問では儒教をはじめ書画、とくに竹の墨絵を好んで書き、そのほか俳句、和歌、詩文、算術にも長じ、生け花、茶の湯、さては大工、左官、石工のことまで通じていた。

また、間川という地区の山中に、仏にちなむ三十二の名勝をつくった。梅の宮(うめのみや)、白羽坡(しらわは)、撫松原(ぶしょうげん)、送月橋(そうげつきょう)、万竹園(ばんちくえん)、独楽堂(どくらくどう)、遊遷石(ゆうせんせき)、臨溪坡(りんけいは)、鼓石(つづみいし)、長嘯石(ちょうしょうがん)、浣花溪(かんかけい)、曼荼羅岩(まんだらがん)、観我岩(かんががん)などがそれである。

独楽堂では竹谷問答百巻を書き「とにかくに思いなければほうろくの尻は焼けても胸はこがさず」の歌を作り、友人を招いては仏話や文学に花を咲かせた。

 寛政十二年(1800)四月のはじめ、自分は六月六日に死ぬと予言すると、一と目上人のお姿を拝もうと、民衆が市のように遠近から馳せ参じた。高松藩では説教を中止させようと役人を派遣したが、それでも信者が蟻の如く集ったと、当時の記録にある。このように上人は時の世の「生き仏様」としてあがめられていた。後世には讃岐の良寛さんとも呼ばれた。

多くの人々に見守られながら予言どうり大往生された上人は、遺言により八丁地隠谷に葬られた。

天保三年五月十七日、三十三回忌には、京都小野随心院の宮から上人号が贈られた。

いまだに旧志度町内各所で竹林講が営まれ、県下3大茶会の一つである竹林茶会も年と共に賑やかさをみせている。


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